2011年8月24日水曜日

宝物は、時の熟成を経て得られる

服飾史家、エッセイストの中野香織さんによるブログ「心のガラクタは、捨ててはいけません」を一読し、最近私が折にふれて感じていたことを思い起こした。

私にはずっと捨てたくない存在Aと、ある時期がきたら容赦なく捨てる存在Bがある。Aはモノとしては劣化するかもしれないが、私にとっての「意味」は劣化するどころか時の熟成(私自身の成長)とともに価値を増し、宝物のように思えてくる。一方、Bはモノの劣化イコール「意味」もなくなるという存在である。

Aの具体例を二つだけ挙げてみる。

A:
①書籍
よく「読了」という表現が使われるが、著者が長文にこめた思考の展開や表現を、私は決して一回の目通しで読めてしまうとは思えない。行動として文字を眼がなぞったとしても、その時どきの感受性や理解力によって受け止め方はまるで違う。幼い頃、たった一文でも記憶に引っ掛かった書物は、大人になってからの宝物になる可能性が大きい。

②自分による体験・取材・観察・思考プロセスの記録メモ・写真・絵など
高校2年生のときの数学ノート。ある問題を考えて考えて半分徹夜状態になった。あとで先生から言われたのは「こんな解き方よく考えつくな。私には思いもつかなかった。」決して効率的ではなかったかもしれないが先入観なしに自分が考えた軌跡をたどるのは面白い。その他、好奇心が最高潮のときに食い入るように記録したメモほど後になって宝物になる。

そんなふうだから、どんなに私にはガラクタに見えたとしても、現在私と同居する二名の人物にとっての宝物であるかもしれない存在を、断りなしに整理したり捨てたりすることはできない。当然、室内は片付くことはないが、そんな空間を共有できる間柄を貴重に思う今日この頃。





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