2012年11月11日日曜日

鷲田清一 著『ひとはなぜ服を着るのか』で振り返る「境界を意識した歴史」

先月半ばのこと。
一冊の文庫新書に目が留まる。
その直球なタイトルを見て、即座に購入。



人が生きるために不可欠な「衣食住」の「衣」について
根本的にその本質について思索を試みた書ではないかと
直観できたのは幸いだった。

著者とこの本についての
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「ファッション」といえば「服飾」を主に示すものであるという認識や
英語由来の「ファッション」とフランス語由来の「モード」とは
意味も使われ方の違いも曖昧に感じられている現状の中…
この本は、そうした用語の定義周辺について、フランスの思想家ロラン・バルトの名言をはじめとする様々な名著からの引用とともに、深く掘り下げて思考する機会を提供してくれる。

私自身は、自らの「服」との関わりの歴史を振り返る機会を得た。
私がはじめて自分が着るものに強いこだわりを感じた幼少期から、
着るものというのは、「秘めた感受性の結果の可視化」であった。
これは、香水に対する私の意識と共通する。

今、というこのときの空気から感じる外側。
今の「わたし」の身体の内側からの欲求、防御、想い。
これらの感受のせめぎ合いの中で選びとられた「服」があると。

身につけたいものというもの。それは
身体の外側と内側の境界である、という意識があった。

外側。それは、その時代の様相が醸し出す雰囲気、空気感であり
これが「ファッション」または「モード」の本質的な意味でもある。

内側。それは、記憶とインスピレーションが弾き出す答。

その年齢なりに
その時の周囲の人の眼線うずまく中の空気感を感受しつつ
その外側と、「わたし」という内側とのせめぎ合いから欲した境界線。
それが私にとって衣服であり
かつて「防御」の要素が多かったのに対し
最近では「ホスピタリティ」という要素も増えてきている。

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