何を感じても自由、言葉にさえしなければいつまでも自分だけの秘密。
香水、という概念も知らない幼児の頃、あるフレグランスの香りを嗅いだとき、私は成人した自分の姿が見えたような気がした。
私は香りに浸っていると様々な色や形が目に浮かぶ。
音楽も聴こえてくることがある。
リアルな音楽、生演奏に限るが、聴いているとさまざまな風景や情景が頭の中で高速で流れることがあり、そんなときは涙がたくさん溢れてくる。だから明るいコンサート会場は苦手。何が悲しいのと尋ねられたくないから。
そんな自分を特別とはおもっていない。
人それぞれ、そういうことは何かしらあるのだろうとおもっている。
そして一週間前にこの本に出逢う。
モリーン・シーバーグ著『共感覚という神秘的な世界』和田美樹訳 (株)エクスナレッジ 。
訳者によると、共感覚(synesthesia)とは、ひとつの感覚刺激が不随意に複数の感覚で知覚される現象であるという。共感覚の発現パターンや頻度は限りなく多様。文字や数字、音、曜日や月の名前に「色が見える」こともあれば、触感を感じたりすることもあるそうだ。
いやそんな…人間は五感全体というか全身で感じながら生きているんだから、いくら音だけをきいても色々感じたりするのでは?誰にでもあることではないか、そんな大袈裟な、と少々斜に構えて読んでみた。
でも、共感覚者とよばれる人の多くが、アーティスト、作家、詩人…その他芸術分野でクリエイティブな活動をしている人であった。実際に著者が取材した共感覚者として、ミュージシャンのビリー・ジョエルや、ファレル・ウィリアムス(グラミー賞受賞のプロデューサー兼パフォーマーでありながら洋服のブランドすら作りルイ・ヴィトンのサングラスとジュエリーまでも手がけた)の話を読んでいると、やはりこうした人たちにとって共感覚はかけがえのないものであることがわかる。そしてこうした感覚があってこそ、多くの人を感動させる豊かな表現につながるということにはおおいに共感。
たとえば…そもそも視覚表現を視覚記憶だけで豊かにできるはずもないとおもう。なんだかあったかい感じ、やわらかい感触、優しい声、安らぐ匂い…たとえばそんなイメージが相乗効果となって表現になるから面白いのでは、と。実際私も大学の講義の中でファッションを学ぶ学生に、匂いから色や形を表現させている。そのほうが表現の可能性が拡がっている。
既成概念にとらわれて、正解はあたかも一つしかないような洗脳をうけてしまうとなかなか共感覚の面白さを体感できないかもしれないが、人間のつくった分類上の決まりごとなど無関係に生きる幼児期の感覚体験を大切にし、感じることからはじめる表現の面白さを領域を超えて伝えていく必要性を改めて感じている。
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