2012年7月4日水曜日

服装の記憶

数年前、そして何十年も昔
とある場所である人に会ったとき
自分がどんな服装だったかについて
よく憶えている。

もちろん全てではない。
ただ、「いつ、どこで、誰と、何を…」
まで思い出せると服装もセットで思い起こしてしまう。

その服装の中には「フレグランス」も含まれる。
フレグランスに関しては特に
いつ頃、何を使用していたかはっきりと憶えている。

おそらく。
服装を決めるときに
「いつ、どこで、誰と、何を…」を考え
その風景の一部としての自分の姿を
頭の中で描くからだろうと思う。

手で絵を描くことだけが「ビジュアル表現」ではない。
自分の身体という立体に
さまざまな髪型、衣装、動き方、香り方、話し方を添えて
日々表現の実験をすることができる。

制服の時代を終えて18歳以降。
身につけるものを全て自分の意志で決められるようになってから
私の服装の実験は始まった。

もちろん失敗したかな、ということは多々あった。
どういう意味で失敗かというと
「自分はこのように見られたい」
と描いたイメージとは全く違うイメージに見られたときである。

文化服装学院の講師となって3年目。
学生の服装や外観に対するチャレンジ精神を見ていると
非常におもしろい。
チャレンジングなのに違和感がない。

彼らの外観表現は規制概念にとらわれず、
ジェンダーフリー、カルチャーフリー。
日々さりげなく
アイテム選び、着方、スタイルに工夫がある。
「こんな格好で恥ずかしいかも…どうかな?…」
なんて照れも感じさせない。
これ見よがしな違和感もない。
ごく自然に、堂々と。

着ながら描く。
そして目にとまった面白いものは
どんどん素材として取り込んでいく。
目だけでなく、耳から鼻から…
自分の五感に魅力的に訴えるものに鋭敏に。
いつしか自分の一部にとりこむほどに。

そういう姿勢が
「装い」を文化として発展させていく要因になると
改めて思う。





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