香りを表現する言葉には、その源である香料そのものの名称が多く含まれ、その香料自体を知らない人にとっては、想像も理解もできないかもしれない。
ムスク。
私はこの動物由来の天然香料の名前を10代の頃からごく自然におぼえてしまった。某フレグランスの名前に使用されていたことからその言葉を知り、そのフレグランスにまつわる忘れ難い思い出から、香り自体を好ましい存在として記憶するに至った。そのときは本物の天然ムスクの香りを体感したわけではなかったが、この香りの言葉に対して私なりに記憶したイメージフレーズは「温もりのある人肌から優しく漂う甘さ」であり、自分の女性という性がうっすらと意識させられる力も感じていた。
ムスクという天然香料については、1989年に朝日選書から発行された「香りの世界をさぐる」(中村祥二 著)の中の著述が非常に興味深い。第二章「天然香料を求めて」の中で挙げられているのはバラとムスク。調香師である著者の専門的知識とともに、本物の天然ムスクを体感したときの様子も詳しく記されている。その中からムスクの基本知識を一部引用して*間にまとめてみる。
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…ムスクは、雄の麝香鹿(ジャコウジカ)の香嚢(コウノウ)から得られる。麝香鹿は、中央アジアの山岳地帯に生息…香嚢は、雄の下腹部のへそと生殖器の間にある。雄は、香嚢の中央の小さな穴から出されるムスクと糞で定期的ににおいづけを行う。…英語のムスク"musk"は、元をたどればサンスクリット語のムスカ"muska"で本来は睾丸の意味。太古の人は睾丸と思ったようだがそうではなく、香嚢である。…ムスクは漢字では麝香。…この漢字は、鹿の放つ香りが矢を射るように遠くまでとぶ、ということを表している。…麝香の文字は中国最古の薬物書「神農本草経」の「上薬」に明記されている。…
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ムスクが他の香料にも見られたように薬として用いられている歴史があるのも面白い。薬といえば貴重品。しかも自然界の動物由来となればなおのこと。
著者の中村氏によると、この極めて希少価値の高い天然のムスク(香嚢を切り取って乾燥させたもの)そのものには独特の獣臭があり決して快いとはいえないが、ごくわずかの量を香水に加えるだけで香りにコクや温かさ、セクシーさなどを与え、広がりのあるものに変えてしまうとのこと。
確かにムスクが使われたというフレグランスには長く持続する温かみのある優しさが感じられる。何日たってもどこか切ない位に残っている。花や葉など植物由来のものにはないものかもしれない。
以前はムスクのために多くの鹿が殺されていたが、人口飼育や香嚢を切り取らずに反復採取する方法も困難ながら研究されているとのこと。さらにムスクの主成分ムスコンの合成も可能となり、こちらも広く調香に用いられるようになったという。いかに人が素晴らしいものを求めた結果とはいえ、貴重な種の動物が絶滅しないことを祈りたい。
つい半年前、私も天然ムスク(乾燥した香嚢)を嗅がせて頂く機会を得た。もうずいぶん時間が経過したものと見られたが、知識で得ていた印象を裏切らない、深く複雑な生き物の香りだった。
参考文献:
「香りの世界をさぐる」中村祥ニ 著
朝日新聞社より朝日選書として1989年発刊
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